ロシア語の発音

•2月 1, 2013 • コメントする

ロシア語を習い始めた初期のころ、ロシア語の発音がひどく苦手だったことを覚えている。
東京大学でロシア語を第二外国語として選択した場合、毎週金曜日に行われる「ロシア語演習」という授業で最初の三ヶ月みっちりと発音を叩き込まれる(非常にイメージしづらい話だろうが、とにかく「発音」を叩き込まれるのだ)。

ぼくはいわゆる「巻き舌」(ロシア語でいうRの発音)ができなかったし、何かとうまくいかなかった。いかし、そのころに悪いながらも試行錯誤したことと、ロシアにいて「発音を矯正しよう」と考えていたことがうまくつながったので、まとめていこうと思う。
もちろんぼくのロシア語の発音は不完全だし、まだまだネイティブからほど遠い部分はあるが、例えば同じスラヴ語族のポーランド人に「本当にロシア人みたいに話す」と褒められたりしたこともあり、まとめる決意に至った。

まずは母音について。
日本人の一番苦手な発音は「у」であろう。「うー」だ。「うー」。
これは口を突き出してする音で、割とどんなロシア語の教科書にも記述があるのでそこにまかせたい。

さらに、ш、щ、з、х、ы、р、ж、л、тなど、分かりやすく日本語と異なる音があるのだが、この中でもぼくがあまり教科書で読まなかったことや日本語と特筆して異なる点を書きたい。

まず、ш、щ、жに関してだが、これは「空気をこすらせた音」なので、お腹の底から空気をハッと吐いて口の中に空気を送り込まなければならない。この、お腹の底から空気を送り込むという「行為」そのものが日本語の発音の体系のなかにないので難しい。舌の形は教科書など参照だが、とにかく空気を送り込むことに関して日本人は忘れがちだ。おそらく、もちろん舌の形は変なのだがそれ以上に気をつけなければならないポイントだ。

そして、ぼくが案外苦労したのはТの発音だった。このТは日本語のタ行とも英語のTとも異なる。ぼくはそもそもそれに気づいていなかった。結局のところ上前歯のさらに上部に舌の先をつけて発音うる音なのだが、いわゆる軟膏蓋に舌をつけて発音する日本語のタ行とは違うものになる。
これに苦労していたのだが、最近気づいたことのうちのひとつに、特に日本の東北部で話される方言のタ行はロシア語のTに近いということがある。彼らは鼻から喉に抜ける音を持っていたりするのだが、そのタ行はおそらくロシア語にかなり近い。
とにかく、英語とロシア語のTの違いを意識せずに話していたころ、先生に「英語とロシア語は違うわ。どうして英語のような発音をするの?あなたは日本人でしょう」と言われたことから、とにかくTの発音を修正しようと思い立った。

結局のところ、何か有益な情報をもたらしたわけでもないが、このTに関しての記述は割りと新しいものではないかと思い書いてみた。さらに何か情報があればコメントしていただけるとありがたい。

関係のない話にはなるが、こういうこともあり、他の国出身の人がロシア語を話すのを聞けば、その言語の発音の特色もつかむことができるので楽しい。(発音がひどい、ということを書くが少なくともこれでぼくが他国の人を馬鹿にしたい、という意図は全くないことを書いておく)
ぼくのなかでロシア語の発音がひどくなってしまう言語は、中国語、アメリカ英語、フランス語だ。この三つに関しては、もはやロシア語を学習するロシア人以外の外国人が聞き取るのを困難な状態に陥れることがある。
南欧言語を話す人々はとにかくミャークキーズナーク(軟音)ができない。とにかく彼らの音は硬く硬く硬い。
韓国語には、日本語でいう「チェ」と「ツェ」の区別がないのか、そのあたりが全て「チェ」に収束してしまう。日本人感覚でいえば非常に「かわいい」訛りになるのだが、ロシア人感覚からすると非常に奇妙らしい。

これに対してアラビア語圏の人(例そのものが少ないのだが)にとってロシア語の発音は簡単らしい。ぼくもアラビア語の学習をしたことがあるのだが、アラビア語の非常に広い子音体系からすると、ロシア語の子音体系などへのかっぱなのだろう、アラビア語を母語とする友人はきれいにロシア語を発音し、「アラビア語を母語として話す人にとって発音が難しい言語はない」と話していた。非常にうらやましい。

中国人に数回、日本語とロシア語の発音が似ている、と言われたことがあるが、これはおそらくたまに話す日本語をロシア語のような息遣いで話ししまうことがあるから、と考えておく。

北朝鮮料理

•1月 31, 2013 • コメントする

北朝鮮料理

年明けはモスクワにいたのだが、そのときに北朝鮮料理屋に行った。

前から行きたいと思っていた。そこは北朝鮮の政府が経営しているという噂だし、いわゆる「喜び組」のモスクワ支部が働いているという噂だ(どれも定かではないのだが)。

モスクワにいる友人たちと会うついでにみんなで行ってみた。

入り口は簡素なつくりだが、地下へ階段が伸び、地下には広い空間が広がっている。地下には北朝鮮のテレビ放送が映し出され、民族衣装の展示もされている。ウェイトレスしかいない。(ウェイター、は見当たらない)

料理はすごくおいしく、値段もモスクワとは思えない低さだった。モスクワのレニンスキー・プラスペクト、からアシャン周辺を歩けばすぐに見つかる。
ウェイトレスの方に「北朝鮮出身ですか?」と聞いたら「そうです」と。彼らは普通それほどロシア語を話すことができないのだが、このウェイトレスの方は流暢にロシア語を話し、ロシア人の男性のジョークにも笑顔で答えた。酒に酔っ払った僕たちに絶妙なタイミングでさらに料理を勧めてきたり、食事の終了を見計らってデザートを勧めてきたり。ロシアに来て味わった接客の中では間違いなく一番のものだったし、おそらく素晴らしいのだろう。日本と北朝鮮の関係はひどく悪いし先行きも思いやられるが、(こういった形とはいえ)この国の人と少しでも触れ合うことができてよかったのかもしれない。

モスクワで熱を出した次の日にいき、ロシア人のノリでそのまま60度のアルコールを二杯も半強制的に飲まされたことから、その後5日ほど体調を崩し続けたのでまた行きたいところだ

ロシアの賄賂についてのお話

•1月 29, 2013 • コメントする

ロシア、と言えば「賄賂」という言葉を連想する人もいるのかもしれない。

例えば、「ロシア 賄賂」と検索をかけるだけで、「ロシアは賄賂天国」だとかそういった記事がズラズラと並ぶ。この賄賂、について少し考えてみようと思う。

関連記事としてnewsweekの記事(正直視野が狭過ぎると思う)ともうひとつブログ記事(個人的なものだと思うので、感想そのものは控える)を載せておこう。参考になる。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2010/09/post-1663.php
http://rbs.gouketu.com/page014.html
さて、ロシアで生活をしていて、何がよく目に付くかというと、「求人広告」なのだ。例えばマクドナルドの広告は「このバーガーがおいしい!」というものではなくて「うちで働けばこれだけの給料が得ることができます!」とかそういうものが多い。本当に、商品そのものを宣伝する広告をめったに、見ない。最近ロシアに「シャカシャカチキン」が登場したのだが、そのときはさすがに新商品としての広告を見たりもしたが。結局のところあまり思い出すことができない。
バスの中のきっぷ切りの仕事(コンダクター)に地下鉄の運転手の給料、警察官の給料などなど、ぼくは大体の給料の水準を理解した。

マクドナルドやカフェで働く→月に28000ルーブルから
バスのコンダクター→月に25000ルーブルほど
バスの運転手→月に35000ルーブルほど
地下鉄の運転手→月に50000ルーブルほど。

それではここで考えてみよう。例えばぼくはいま大学でロシア語の勉強をしているが、そこで外国人生徒たちを教えている先生の給料はいくらか。そして他にもロシア外務省に勤めている友人もいるが、その彼の給料はいくらか。
先ほどの例からすると、もしかしたら50000ルーブル以上を想定するのかもしれない。

結論を言えば、全然違う。彼らの給料は驚くほど低い

大学で外国人にロシア語を教えている先生たちや大学教員→月に10000ルーブルと少し
外務省の友人(立場を書くのは控える)→月に11000ルーブル、と言っていた。

そもそも日本と全く仕組みが違う事態になっている。
一度先生に聞いてみたが「カフェの仕事はいつも笑顔をしていないといけないし、コンダクターはいつも同じことをしていないといけない。それは辛い仕事だから給料が高いのが当たり前だわ。」と話していて仰天したことがある。

日本では、能力が給料に繋がるのに対し、ロシアでは仕事の辛さが給料につながっている。

以前はこれで大丈夫だったのだろう。先生は生徒から成績のために賄賂を受け取っていたし、役人も当たり前のように賄賂を受け取っていた(らしい)。医者も患者から賄賂を受け取っていた(そういえば、医者の給料も日本からは考えられないほど低い)。バスのコンダクターやカフェの店員に、いつ賄賂を受け取るタイミングがあるだろうか?
検察官をしている友人もいるが、その人も弁護士は未だに多量の賄賂を受け取っている、と話していたし、それが当たり前だと話していた。

外務省で働いている友人の話に戻してみよう。例えばモスクワで生活するとして、どれだけ安いアパートに住んだとしても、一ヶ月に8000ルーブルは飛んでいく。そしてモスクワだと物価は日本並みだ。月に11000ルーブル。どうやって生きるのか?彼自身は、母親とともに住んでいるため(ロシアは非常に、日本人がその実態を知れば本当にびっくりしてしまうほどに、離婚率が高い。彼の場合はそういう事情ではないのだが、片方の親と生活している、という点ではロシア人の若者によくある状態だ。)余裕があるが、それでも11000ルーブルは・・・。といったところ。

貯金?
ロシア人は割と手元にあるお金をパパパッと使ってしまう。銀行を信じる人は少ない。そういう考え方なのだ。

この文脈で考えると、メドヴェージェフ大統領のいった「徹底的に汚職と戦う」とはなんだったのだろうか。
例えば教師や医師の現在の給与水準で、賄賂=汚職とみなしてそれを徹底的に禁止することは、彼らにジリ貧の生活を強いることを意味する。そして現在人々は既に賄賂=汚職と考えているから、彼らはジリ貧の生活をしている。友人の数人は、一緒にカフェに入ってもコーヒーの一杯も頼まない。どうして?高いから。

こういうことを見た上で、ロシアで給料体制の見直し無しに汚職の撤廃を叫ぶことは、知的労働からの人離れを意味することは明白だろう。そうして今現在ロシアからは頭脳が流出し、プーチンはそれを嘆く。(そういえば最近、60歳を迎えたプーチンは自身が年金をもらいながら仕事をしたいのか、「年金をもらいながら働いても良い法律」を制定していた)一度テレビ局の番組にお邪魔したこともあったが、さすが反体制なことを絶対に言わないロシアのテレビ局、「海外へ行くのは愚か!」と叫んでいた。

例えば、ぼくがロシアに来てから、とてもこれはロシアらしい、と考えたことのうちのひとつに、「街角のゴミ箱へタバコをポイ捨てする人が後を絶たない時(小火の可能性がひどく悪化する)、ロシアではどうするか」という問いがあり、例えばロシアの場合、この答えは「街角のゴミ箱をごつくしてしまう。」ということなのだ。
ぼくは今まで幾度となく街中でゴミ箱の中から濛々と煙が上がるのを見たし、それはそれほど変わった風景でもなく誰も注意を払わない。こういう考え方なのだ。
「街角のゴミ箱へタバコをポイ捨てする人が後を絶たないとき、ロシアではゴミ箱をごつくする」と、「給料体制と賄賂がどう考えても結びついている状態において、そのまま賄賂をつぶしてしまう」。
なんとなく似ている。というかおそらくとても似ている。本質のグループを全く解決していない、という意味で。

賄賂、を精神論的にダメ!と決め付けてしまい安易に批判すると、ただただ体制の下にあるロシア国民は非常に辛いだろう。いつ体制は、仕組みは、変わるのだろうか。難しい話だ。
ただひとつ救いがあるとすれば、そのような低い給料でもその仕事にプライドを持って従事する人が常にある一定量いるのがこの国だということだ。これだけは大きく評価したいと思っている。

【追記】最後の「ただひとつ救いがあるとすれば、~」の段落について、バレエダンサーの砂原伽音さんより、コメントをいただいた。ブログには初登場の彼女だが、仲良くしてもらっている。

彼女のブログはこちら→http://profile.ameba.jp/kanonballet/

(以下抜粋)私が所属した国立劇場や、今の団では階級によって給料が平等だったけれども、公演の度に貰うギャラは、能力の一番高い第一ソリスト(私は基本的には第一ソリストですが、作品によっては第二、第三になっています)よりも、辛いパートを踊らなくてはならない第二ソリスト、第三ソリストのほうが多く貰うことがある。でも、それに対して誰も愚痴を言わない。”君は大変だったから”と皆が当然のように受け止める。寧ろお金よりも、”自分で納得いく踊りをしたい”、”お客さんに喜んでもらいたい”と思いながら仕事として舞台に立つので、”自分はロシアの国家資格を持ったダンサーだ”、ということを忘れないようにしている。ボリショイバレエアカデミーの教授達の給料も最低。(音楽院を卒業したバレエピアニスト達はさらに低い)普段クッキーを食べているだけで本当に何もしていない”寮長”のほうが大分高い給料を貰っている。けれども、ロシア国家の舞踊教師であることを誇りに思い、全力で未来のダンサー達を育てている。教授によっては、朝の8時から自分の気に入った子だけを担当クラス前に見て、放課後にも、その生徒を呼んで特別稽古を付けている。ロシア人が好きだー。何度でも言える。こんな環境で育つことが出来ましたことに、感謝をして。

プスコーフのことを少し

•1月 13, 2013 • コメントする

秋ごろだったか、週末の土日を使って、ノヴゴロドとプスコーフをめぐったことがあった。ノヴゴロドは、高校の歴史教科書にも出現するし、非常に馴染みのある名前だったりするのだが、プスコーフはあまり馴染みがない。

プスコーフはサンクトペテルブルクから300キロと少し南西へいったところにある、ラトヴィアやエストニアと国境を接する地方にある小さな町だ。人口は20万人ほど。
ただ、ラトヴィアやエストニアと国境を接する、ということもあり、ロシア史において(とくに軍事)非常に大きな役割を果たした。プスコーフのクレムリンは15世紀に包囲された26回、全て敵を撃退しているという。それもそのはず、クレムリンが非常に重厚なつくりをしているのだ。

・外からみたクレムリン

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・クレムリンへ入っていく小道(この風景が非常に日本人の心を掴みやすいのではないか、とは考えている。)

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・クレムリンの中の至聖三者大聖堂の非常に立派なイコノスタス

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・プスコーフを流れる川を渡ると町並みが急にバルト三国っぽくなる。やはり影響を受けているのか。

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あまり観光投資を行われていない街らしく、駅やバスターミナルからこのクレムリンへたどり着くのは難しい。現地人たちに声をかけながら行かなければならなかった。それでも現地の人たちは本当に優しく、丁寧に道案内をしてくれたり、クレムリンへ向かう途中へ色々な教会へ寄っていったのだが、手持ちのお菓子を全部くれたり、手厚い歓迎を受けることができた。(それでもアジア人慣れしていない若者が「にぃはお!」と叫んでくることは何回かあったし、現地の人もすさまじい視線でぼくたちを見てきた)

近場にプーシキンスキー・ゴールィなど、見所のあるところがいくつかある(回ることはできなかったが)。黄金の環とは違う、「ロシアの端」として近隣諸国と衝突した歴史を持つこの地域をめぐるのも面白いかもしれない。

聖ニコライ聖堂

•1月 13, 2013 • コメントする

聖ニコライ聖堂

マリインスキー劇場近くにある、聖ニコライ聖堂。
おそらくペテルブルクの大きな聖堂の中でも最も厳粛なもののひとつだろう。そのせいか『地球の歩き方』にも説明は載っておらず、場所が記されているだけだ。

有名な聖堂を並べてみても、血の上の救世主教会は(何度でも言いたいが)観光客のためにあるようなフレスコ画に観光客のためにあるような全て、であるし、スモーリヌィは建物こそ非常に美しいが中はただのコンサートホール、カザン聖堂は厳粛な雰囲気を保っているが街の中心にあるあまり観光客の多さがどうしても際立ってしまう。

グリボエードフ運河沿い(カザン聖堂や血の上の救世主教会の側を流れているもの)を散歩するついででも良いし、アクセスの悪さから観光客があまり寄らないためペテルブルク人のちょっとした日常生活を覗くのもよし、厳粛な様子で鳴る鐘に耳をすませるもよし。

聖ニコライ聖堂はペテルブルクでぼくが一番好きな聖堂のひとつだ。

ぼくがモスクワを好きなこと

•1月 8, 2013 • コメントする

ぼくがモスクワを好きなこと

結論から述べると、ぼくは多分モスクワがペテルブルクより好きなのだろうと思う。
モスクワ、という街はぼくを魅了してならない。

ペテルブルクには、あまりロシアな建築がない。ペテルブルクとモスクワで少し似た建築として、ペテルブルクには「血の上の救世主教会」、モスクワには「聖ワシリー寺院(ポクロフスキー聖堂)」があるが、前者はあまりに現代的で、内装もあまりに人(観光客)の興味を引こうとがんばり過ぎている。
モスクワには、ロシアな建築がたくさん転がっている。通りを歩いていても、あちらこちらから教会の鐘の音が聞こえてきて、その度に騒々しい街は一瞬真面目な顔を見せる。

通りをとってもモスクワは本当に面白い。
新アルバート通りは、年や季節によって飾りつけも変わり、音楽が流れたりしていて現代的な人の楽しみ方をうまく使えている。旧アルバート通りは歩行者天国になっていて、お土産屋も、似非寿司屋も見ていて楽しい。と思えば文化的なニキーツカヤ通りがあったり、自然がきれいな環状道路があったり。細々とした店の多いキタイ・ゴーラド界隈を歩くのも楽しい。

ペテルブルクは、どこも建物の高さが同じで、どこも似たような建物が並んでいる。

一度書いたことがあるが、整っている、というのはぼくにとって非常につまらないのだ。
雑然としていて、見るのに少し時間がかかったり、そういうもののほうが興味をひく。

新年はモスクワに遊びに行っていた。もうこの3年でモスクワに結局合計一ヵ月半ほどはいたことになる。それでもこの街は何度でも歩きたいし、いつでもぼくを魅了する。

やはり、好きなものを好きな理由を説明することは、こうも難しい。

しばらくこの街にも行けなくなってしまった。
Очень скучаю по Москве.

友人の書いたことより

•1月 7, 2013 • コメントする

去年、ロシアに行ったときに一緒になった友人と、それなりに変わった親密さで仲よくしてもらっている。(こんな書き方をして本人がどう捕らえるかは分からない)

彼の書いたことがとても印象に残ったので、コピーさせてもらうことにした。ぼくの歴史認識とも似通った部分があるので、もし興味があれば読んでいただきたい。

皆様、あけましておめでとうございます。新年は中朝国境で迎え、去年・おととしと引き続き、自宅で新年を祝うという伝統から遠ざかっております。先ほど帰国したのですが、当初の療養という目的を全く達成できず、むしろ頑張りすぎるくらい頑張ってしまい、冬休みも終盤に差し掛かった今、初めてゆっくりできる予感です。今回訪問したのは、大連、ハルビン、延吉、図們、長春の5都市でありました。ハルビンでは、体感温度-42度を経験したため、カザフスタンのカラガンダでの-41度の記録を塗り替えました。

今回は、1週間程度の短期間の滞在で僭越ではありますが、中国の東北部で学んだ歴史認識について私見を述べさせていただきたいと思います。少し長くなるかと思います。歴史認識について今回訪問した博物館の中に、731部隊博物館がありました。詳細な説明はwikipedia に譲るとしますが、日中戦争中に日本が現地の中国人やロシア人捕虜を「マルタ」と呼んで一連の生物兵器作成のための人体実験に使用した際の主導の部隊となったのが731部隊です。南京大虐殺問題と同様、「存在しなかった説」から「数十万の犠牲者が発生した説」まで様々な議論が存在する「いわくつきの」場所です。実際に展示の多くが日本の戦争犯罪を弾劾するものばかりで、見学して決して気持ちのいいものではありませんでした。これらの展示を見ながら感じた論点として、「事実があったかどうかは別として、ここにいる人たちは、それが事実であるという教育を受けてきた」ということです。事実、この博物館で採用されているのは中国の立場であり、ここに書かれている展示が、「中国人の歴史」となっています。中国においてはこれらが事実ということになっています。それに対して731部隊はなかったと主張することは、一種彼らの歴史には反します。

仮に、731部隊なんて存在しなかったという極論が真実であったとしましょう(私はこの意見には真っ向から反対しますが)。それが証明できたところで、中国国民に何の影響を与えるでしょう?むしろ、日本に対して逆の変な怒りがわいてくるのではないでしょうか。自分が今まで蓄積してきた事実なり、経験なりが誤っている、とはなかなか認識できないものです。特に愛国教育等を受けて自分の国に誇りを持っている人々は、なかなか受け入れられません。

今ここで、このような極論を挙げたのも、民間人レベルでは、何が正しいかをひたむきに証明することに奔走することが、歴史問題を解決するとは限らないということを示すためでしかありません。もちろん、事実は事実、誤認は誤認ではっきりさせることも重要です。ここではそういうのは学者の人々に丸投げします。自分が教えを請うている歴史の先生は皆人格的にも、学者としても素晴らしい人ばかりです。そういった人に任せておいた方がいいし、そこで冷静な議論をしていただきたいと思います。私の思う、民間人レベルの歴史問題は、〇か×かを相手に教えるような問題ではなく、例え×だとしても〇になっている問題なのだと思います。

では、歴史問題をどう解決するのか。私の考えとしては、歴史問題の解決はありえないということです。これは私がペシミストだと言うのではなく、単に「歴史問題における問題の解決とは何か」がわからないからです。一方領土問題は結構単純化できると思います。例えば、両方が納得する形で領土の帰属が決まれば、基本的には領土問題は解決します。こういった形で、中朝国境の長白山、中ロ国境の画定が行われました。それに対して、歴史問題はどうでしょう?例えば慰安婦問題。どうしたら解決になるのでしょうか?ハルモニと呼ばれる人々が亡くなる前に日本政府から公式の謝罪を受けることができれば彼女たちは安心して天国に行けるでしょう。めでたし、めでたし、となりますか?「慰安婦問題によって、国の威信が傷つけられた、賠償しろ」と言われたらどうしましょう。実際に記念碑がたち、博物館ができ、そして教科書で教えられる。こういった一連の流れができてしまった以上、「いくら謝ったって許されない」「いくらお金を払ってもゆるされない」という正論すぎる正論を半永久的に生む可能性があります。これではキリがありません。

そのうえで、日本人は何を考えなければならないのでしょうか。まずは、自分の歴史を認識することだと思います。これについては教科書問題で様々な議論がありますので、論点はそちらに譲るとしても、できるだけいろんな人の意見、色んな本を読むこと、これを徹するのが一番かと思います。また、問題の解決に過度な期待をしない。日本人はアジアにおいてはあくまでも加害者という立場にいます。お金を払っただろ?謝っただろ?と言ってしまえば、いらぬ反感を呼ぶだけです。時も解決してくれないと思います。こうした問題はしっかりと教育という媒介を伝って、若い世代へと伝わります。若い世代は戦争を経験していない分、それだけ感情に左右されやすいという特徴があります。ただ、思うに、中国、台湾、韓国、北朝鮮の人々が将来的に許す、許さないは別として、歴史問題が理由として日本と付き合っていくことをやめる国々とは思えません。現在の相互依存が進んだ世界において、日中・日台・日韓・日朝(一応)を切ることは様々な不利益をもたらします。また、中国、朝鮮とも歴史ある大国であり、日本もまた歴史ある大国であり、これら三国には、その歴史に見合う懐の大きさが備えられています。ですから日本人も卑屈になりすぎることはなく、自分が思うことはハッキリと言うべきです。相手はこちらを理解してくれないし、こっちも相手が何を考えているかわからないと考えることが相互不信につながり、冷戦のイデオロギー対立の根源になったことは、ゼミで勉強したことです。ここは、お互いに相手の胸を借りるくらいの勢いで思うところをぶつけるのもいいでしょう。勿論政治体制の違いという大きな壁があります。今回の旅行では中国人は皆優しかったし、歴史問題もほとんど触れられませんでした(少し残念ではあったが)。それでも国家対国家になると仮想敵国にまでなってしまいます。相手に思いをぶつけろって言ったとしても、誰にぶつけるのかについて私から具体的な意見はありません。ただ、それだけ、歴史問題は複雑だし、これは現代に生きる日本人にとっても、それだけ責任感を持ってふるまえという警告にすらなるものなのでしょう。また、お互いに共通する歴史認識を持つ必要はないと思います。そうではなく、お互いに共通する歴史があるということを常に認識したうえで付き合っていくこと、決して避けるのではなく、大国同士堂々と付き合っていこうではありませんか。歴史問題は、10年、20年で解決するものではありません。それだけの責任があるものです。歴史を専攻する学生として、それほど大きなテーマを扱っているということを改めて実感できたことは何よりも幸せです。

年越し。ロシアでの大きな出会いも。

•1月 2, 2013 • 2件のコメント

夏の終わりか秋だったか、友人たちと大学近くのピーシュキ屋でピーシュキをほおばっていると、男が話しかけてきた。

男は突然片言の日本語で話しかけてきた。「日本からですか?」非常に不自然なフレーズではじまった。

話を聞く限り、ろくな人間ではない可能性が高かった。見た目は22歳ほどと若々しいのだが、実年齢は28だったし、芸術アカデミーを卒業したてで寮を出なければならず住居がない、しかし職もないのでどうすればいいのか分からない、と。でもどういうわけかぼくは彼ととても仲良しになった。芸術家、という存在がぼくを惹き付けたのかもしれない。

とにかく、それから彼とは何度も会っているが、話を準備しなくてもぼくたちにはいつも話すことがあり、それは止まらない。彼にはお金がないから、いつも彼のアパート(とても環境の悪い、立地だけは良い格安の部屋を見つけていた)だったり、とにかくお金のかからないところで色々と話した。色々なことがお互いに新しい。もちろん彼にイラッとすることも多々あるのだが。

彼の家に住んでいる人は数人いて、また楽器をたくさん置いている人もいる。楽器を置いている人は、これから修理工、と書くことにする。大変なことに、彼と修理工は同じ名前だ。

年越しはこの修理工の家で過ごした。イタリアのウォッカであるグラッパを飲み、当たり前のようにバカルディを飲んだ。修理工を中心とする友人が集まって住んでいるこの家は、どこも何かしらデザインが施されていて楽しい。共用スペースにはターンテーブルがあり、修理工が音楽を流していた。ぼくも彼らと一緒になって酒を浴びて踊った。(こんなに明るくて人と分かりあえる気分になれることが日本では禁止されているなんて。)修理工が流したのは、流行りのイギリスやアメリカのポップスではなく、ソ連時代からあるポップスだったり(中にはソ連の体操まであった)ドイツのものだったり。独自の選択による独自の実行には、その人のアイデンティティが付きまとうから、ぼくにとってはそれはとても楽しい。アイデンティティが染み出す人間はぼくを惹き付ける。彼も修理工もぼくを惹き付ける。

彼はとうとう本音をもらした。「数年前までは俺も日本人の留学生と話そうとした。でも止めた。なぜだか分かるか?(僕は大体ここで分かった)面白くないからだ。俺が日本のことを知っていたり日本語を少し話せたりすると彼らは決まって『うまーい!』だったり『すごーい!』だったり、ということを言う。それで全て終わるんだ。俺は新しいことを知りたかったり感じたかったりするのに、いつも彼らは何もくれない。」と。
そして彼自身が繋がりのある日本人のビジネスマンについて、「彼は、自分の得になることしかまともに対応しない。自分の得にならないことは、長々とした意味のない文章で断る。」と愚痴をもらした。

これ(得に前者)はよくある事態だ。ぼくにとっては、残念なことに、日本に興味のあるロシア人、というのもあまり面白くない。彼らは所謂ビジュアル系のバンドを好み、コスプレを好む。そんなものはぼくにとってはくだらない。マンガもゲームも、ぼくからはほど遠い存在だ。彼はそういう文化以上に、極めて具体的に何がすごくてどういう点で自分が気に入ったかということについてどんどんぼくに紹介してくるし、それはぼくにとってとても楽しい。そして彼は言った、そういう話をしたときのぼくの返答はいつも新しくて面白い。ぼくはペテルブルクでいままで見た日本人の中で一番面白い、と。なんと光栄な。

結局、共通事項、というのは人を惹き付けやすいのだ、お互いに。同じ興味、同じ所属、同じ性質、同じ出自があれば、それは既にコミュニティ形成の理由、あるいは言い訳、となる。そしてそれに甘えるアジア人をぼくはたくさん見た。彼らは楽しそうだ。でもぼくにとって、それで終わることは本当に不満足だ。その先に、その人はどのようなことを言うか。どのような新しさをぼくに与えてくれるか。

留学した時に、同じ日本人で集まるのも結構だし、ビジュアル系やコスプレを中心とする日本に興味のある現地人と話すのもいいのかもしれない。人は人の楽しみがあるのだからいいのではないか、というのはよくある意見だし、 今では最早それが一般意思だから覆すのは大変だけれど、そういうので終わってしまうことは非常にくだらない。つまらない。先が見えない。会話の全ては事実の紹介に終始してしまう。残された時間も少ないが、貪欲に今のロシアでぼくが自分の力で触れ合えるものと触れ合ってこようと思う。

年末にあたり。ファンタジーな世界の振り返り

•12月 30, 2012 • コメントする

久しぶりの休暇である。
というのも、この2月に三年生の冬学期の試験を終えたあと、この留学のために毎日アルバイトの生活をはじめ、4月の後半二週間にフランスとスイスの旅行をしたとはいえ、6月末の出国までは週に6日働いていた。そしてこっちに来てすぐに授業は始まり、いくらか休んだ日はあったとはいえ、土日を除いて毎日授業があった。
久しぶりの休暇である。

今年の一年はどんな一年だったか。
たぶん、「現実逃避」だったんだろうなぁ。と思わずにはいられない。

ロシアに来た理由は、「ロシア語を話せるようになりたい!」や「ロシアについてもっと多くを知りたい!」という積極的な理由だけではなかった。
大学3年生、という時期はバランスを崩しきった年だった。自分の限界を感じたし、その限界は他の人であればいとも簡単に超えられるような限界だった。自分の能力を疑い、自分の能力を過信した大学二年のころの自分を恥じた。何に集中すればいいか分からず、色々な方向に、散漫な様子で僕の注意や集中は散っていった。

そんな自分から逃げた。現実はいとも簡単だった。自分の専門分野に集中すれば良かった話で、横道にそれる必要性は「そこまで」なかった。極めてオプショナルな一年であり、極めて「必要不可欠とはいえない」一年となった。

それでも集中した場合の自分、というのは案外やるものなのかもしれない、ということも分かった。専門でロシア語やロシアのことをする人が、大学で専門に2年ないしは3年学習した後に一年近くロシアに留学して受けるテストに、一年半の第二外国語と6ヶ月の留学で合格した。これは自分がこの一年でしたこととしては大きいのだろう。事実は事実として自分の誇りとしていたい(さらに上の人はいるのだろうと思うが)

帰国すれば、就職活動に大学における専門分野への復帰、卒業のために必要な大学の単位を集めること、卒業論文を書くこと、が大きな現実の柱としてぼくを待ち受けている。
しっかり現実に復帰してやっていく心の準備は整ったと思っている。来年はしっかりやっていきたい。

今年一年、少し人生をお休みするにあたって、励ましをくれた皆さんにはいたく感謝申し上げたい。

不思議なきれいさの青空。

•12月 30, 2012 • コメントする

不思議なきれいさの青空。

サンクトペテルブルク、血の上の救世主教会を、夏の庭園側から眺めた。
とある冬の日の、きれいな青空の下。